昭和54年4月18日 月例祭 ●②x3 大坪かよこ
只今竹内先生のご挨拶を頂きましたが、●②今晩参拝して見えてから、お届けがありましたときに、あの、ここの修行生であります梅山君を頂くんです。
してあの、いま、あの、久富先生が、正義先生が挨拶しておりました時に、ははあ、なるほどこのことだったばいなと思ったんですけども、梅山といや、皆さんも御承知のように、もう大変辛抱、梅は辛抱、山は修行ですからね、やっぱりもうどんなに悪口を言われても、じっと我慢されなきゃならない時だと、また、大変この山を越えなければというような、その、ことだったんだな、というふうに、あの、ご挨拶聞きながら、ま、思うたことでございましたけれども。
今日、私共が、三時の研修をさせて頂きますときにも、ま、そのこと、そのことじゃ無いですけれども、とにかく、信心は、もう、辛抱比べだと、尽くし比べだということに、色々研修したことでした。
もう辛抱しぬいたもんには勝たん、それもね、本当なこと、ね、もう、間違ったことに、いくら辛抱したって駄目ですけれども、これは絶対だ、この道を行けば、ということにおいての辛抱力です。
または、尽くし、いかに尽くしても、その、まあ、何と申しますかね、尽くし甲斐のない、尽くしじゃありません。
これに尽くせば、間違いないというものを、合楽でいつも、指示されるわけです。
ね、ですから、そこのところで、一つお互い、尽くしていこう、ということでございます。
これは、いまあの、今度御本部から頂いてまいりました、私の講演会の、また、二日間の質疑応答なんかのが大変詳しくのっとるんです。
それを読ませて頂いておる中に、えー、大阪の泉尾の先生のお話が出てくるんです。
その先生のお話の中にね、まだ先生が、玉水教会が親教会ですから、初代の湯川安太郎、ま、それこそ、日本一の大先生ですが、ま、おられた時分の事、まぁ、先生は、そのお弟子さんですから、師匠と弟子の話しなんですけれどね、その師匠である湯川先生が、泉尾に向って言われること、ちょうどその時分に、日本中で五つの指に数えられるという、いうならば、大先生方をここに出しながらね、お前がこの人たちのようなおかげを頂くためには、まだ十五年かかる、と仰ったそうです。
ね、そこでね、その、あの、自分はね、もう、尽くされるだけの、尽くしを尽くしぬいたと、いっておられます。
もうここは辛抱がでけん、というところをです、もうそれこそ辛抱比べだと思うて、辛抱した、そしたらね、師匠が十五年と言ったところが、七年間で仕上げた、というお話しをなさっておられます。
ね、確かに、私はお道の信心はね、そういうその尽くし、いわゆるもちろん真です、真心です、で、真心を尽くすということ、なら、どういうところに尽くすかと、ね、またどういうときに辛抱させて頂くかと。
ん、今日、それも研修ん時でした。今日ここでさっき、前講をしておりました渕上先生が、言うとりました。
自分の部屋に、○○教会の○○という人があるわけ。
ほいで始の間、その合楽からのテープを、ま、ずっと送りますから、それを、ま、聞かせて頂いて、ま、感心するやら、批判するやらで聞いておりました。
ところがどうもその、合楽のお話しを聞いておるとくさいんだとこう言うんです。
ね、もうその、ま、嫌な臭いがぷんぷんとする、とこういうわけ。
もう合楽じゃなからなければでけんごと、合楽じゃなからなければ助からんような言い方をするところに、ま、そいうものを感ずるだろう、ね、ところが一たび自分が教会に帰って、御結界から人に伝える時に、話すときにね、腹がたつけども、合楽の先生が言うたことが頭に残とって、それを話しておる自分で、自分ながら腹が立つという話をしたそうです。
どう思われます、臭いがする、臭いがぷんぷんである。ね、合楽支持するとか、合楽の話を聞くということは、好きではないけれども、自分が一たび、御結界に座って、人に伝えておる時には、その、学院で聞いた、合楽の先生の話が頭に残っておって、それを結局はみんなに話しておる、話してしもうてから、自分ながら腹が立つと、まあ、合楽を褒められたような、くさしたような話しですけれども、その、合楽でいうておることは間違いじゃ無いけれども、臭いがする、とこういうのがそうだろうとこう思う。
それもです、●②私は、先日から頂いておって、今日、研修ん時に、ちょっと思い出したんです。
私の信心をね、ちょうど、あの、吉良上野介のごたあるということを頂いたことがあるんです。
ん、もう吉良上野介といや、も、その悪役の大表者、みんなからも、それこそお芝居しよってから、石投げつけられるごたある、でも私が、本部へうろうろしよるなら、ほんなこて、鉄兜どんかぶってさるかにゃんごたある、感じがせんでもないわけですやっぱ。
はあ、あん奴が合楽の先生ばいの、と思うちから、言うような感じがするわけですけれどもね。
ところがね、私、皆さんほんとにこのね、あん、合楽で一つ信心をさせてもらうならばね、ここんところを頂いて、いうなら、悪臭をぷんぷん、悪臭というよりも、ね、嫌なにおいということになりましょうかね。
これは、もう何ヶ月か前でしたけれども、ん、にんにくの信心ということを頂いたです、ね。
このにんにくの信心を、一つ世界の津々浦々まで、広げていかなければならない。
同じ食べ物でもね、ただおいしいというだけで、大して血にも肉にもならない食べ物は沢山あるけれども、にんにくは確かにくさい、始めの間は、鼻をつまむような感じがするんだけども、一たびあの味を覚えたら、もう味噌のおつゆんでも、あの私共は、いれとりました。
もう、味の素以上の味が出るんです。して、その臭いがなんとも言えん、そのにおいなんです。
美味しいでしょうが、朝鮮漬けやらたぶると、けども食べとる人とこうすると臭いがぷんぷんするけん、はー、ちゅごとあるけれどもね、だから世界中このにんにくの臭いにね、しなければいけないというて、にんにくという字を漢字で頂くとね、大きい、大という字、それから草冠を書いて示すという字を二つ書いてあるです。
ね、大蒜と書いてある。そして、にんにくと読むんです。
その、大蒜という字は、草冠に示すという字を二つ書いてある。
ね、だから大蒜の信心をどうでも、世界の津々浦々に広げるということが、和賀心時代を世界に創る。金光教ではこの頃、もう臭いもなーんもせんごつなった。
ね、その、だからその、合楽の臭いをきいたら、やっぱ、ぷんぷんするような感じがする。
ね、そのね、吉良上野介の信心の素晴らしいというこるとはどういうことかというとです、ならあの時もし、浅野内匠頭が合楽の信心をいただいとったら、そうに徳を受けたじゃろうとおもうですね。
いじめられ、いじめられるほど力が付いたでしょう。
悪口を言われれば言われるほど、賢い心が生まれて来たでしょう。ほ、それこそ、神愛有り難いで受けていたでしょう。
そしたらああいう悲劇は起こらなかったわけです。
ね、大体ね、この吉良上野介が、下ずさの国かなんか、いうところでは、もう昔から、忠臣蔵という芝居だけは受けないそうですね。
なしかというとね、も、あの土地ではね、それこそ吉良上野介は、神様のように崇められた人です、だそうです。
合楽でもそうです。ね、合楽のみなさんは、もうそれこそ親先生を生き神様のように言うけれども、それがよそから見ると吉良上野介ごたふうに見えるわけ、そりゃ見えるでしょうね。今日、楽人さんが二人今日でき、おばあさんの楽人さんができなさった。
○○教会の総代さん、○○教会の楽人さん、がもう合楽一辺どうになってくるもんじゃけんで、やっぱり吉良上野介ごつ向こうから見えるじゃろうと思います。
問題はけれどもね、助からなければならない、その教会ぐるみに、一つ助かってもらいたい、とま、思うわけですけれどね、問題は助かるということ。
●② ね、吉良上野介が、あの、殿上の前の松の廊下の所で申しますよね、あんまり悪言雑言するもんだから、もう腹据えかねた内匠頭が、ね、武蔵野守殿、ね、あなたは御酒を召し上がっておられるのでしょう、とこう言うわけです。
ね、それでそのそれこそ、ね、持ってた扇子で顔を叩きながら言うんでしょう。
ね、あなたがいつ私に酒をふるもうたか、私にいつ御酒を飲ませたか、ね、それこそ酒は飲んでも、のまいでも、武蔵野守は勤めるところは、もうきっとつとめる、というてきばるところがありましょうが、ね、酒は飲んでものまいでも、きっと努めえるところは努めるのだ、ここがね、私は合楽の信心の最高のところなんですよ、あれをしてはならない、これを、であってはならない、ね、いうなら人間らしゅう生きるということなんです金光、合楽の信心の一番素晴らしいことは、ね、すべてのことに御の字を付けて頂けと、することでも、たとえば食することでもです、あれは飲んではならん、牛肉は食べちゃならん、豚は食べてはならん、ね、御酒は飲んではならん、と言うのじゃなくて、それこそ、御食物として、天地の親神様がお恵み下さるものとして、それを私どもが頂くという、頂けるということ、しかもそれは自分も有り難いなら、神様も喜んで下さるとところが、合楽理念なんです。
こげんしちゃならん、てとこはひとつもないです。
ただし、しすぎてはいけないよ、食べ過ぎてはいけないよ、大酒大食は絶食の元になるぞ、と教えるのです。
そこでです、酒は飲んでものまいでもでしょうが、ね、努めるところは、きっと努めるという所をあの、合楽では説くんです。
ところがね、酒も飲まん、ね、煙草も呑まん、ね、ああしちゃいかん、こうしちゃいかん、○○教は、何何宗は、分からんような修行を一生懸命するわけです。
ね、それこそ、飲みや、飲まんけれども、努めるところはいつもしだごだ、これはいかんでしようが。皆さん。
ね、あれも守っとる、これも守っとる、そして、なら、努めるところだけはいつも、しだごだ、これではおかげの頂けるはずのところ、受けられるはずもない。
神様が下さるものは、御の字を付けて、御事柄とし、御ものとして頂いて、ね、人間らしゅう生きていくということなんです。
金光様の信心すりゃ、ああもされんこうもされんということじゃでけん、ない、ね、もうこのことはね、もっと詳らかに話さんでも皆さんが分かってくださらにゃきゃいけない。
もう金光教の中で合楽ぐらい自由奔走な生き方をしとるとこはないです。
そげなこつしよるならお気付け頂く、そげなこつしよるなら罰かぶる、というようなことは絶対ないです。
ね、人間らしい、人間、人間の、いうならば、欲望というものをです、満たさせて頂きながら、それを喜ばせて頂きながら、楽しみながら、ね、合楽しあいながらです、ね、いわゆる、努めるところだけは、きっと努めるということにならなければいけんのです。
ね、吉良上野介もみなさん、・・?と同じじゃけん、いっちょ、吉良上野介でね、もう、金光様の信心する奴どんばっかりはち、ちったぷんぷんされれるような、するようなね、あの信心を身に付けて頂きたい。
そしてそれを、大蒜をその人たちも食べ習う、また、こんなにも美味しい、こんなにも力になる、滋養になるということを示してもらいたい。
してそれが、世界津々浦々に広がっていこうというですからね、やっぱちょっと難しい。
ね、その臭いが、やっぱり嫌われる。けれども一たびその臭いを自分自身にも頂いたときには、そういうおかげが受けられる。
ね、そういう、いうならば、なんちゅうかゃね、自由無碍なおかげを頂くためにも、その自由無碍な心の状態というものを開いていく。
ね、酒を飲んじゃならない、牛肉を食べちゃならない、生くさけをとっちゃいけないよと、いうようなものではなくてです、そういうようなものを頂くけれども、けれども努めるところは、きっと努めるという武蔵野守じゃなからにゃいかん、ということなんです。
ね、酒は飲む、あれはする、そして努めるとこはしだごだちゅうなら、こりゃ、もう、いよいよいかんです。
ところがこれは私を見ておって下さればよいけれども、ね、努めるところは、きっと努めるというところ、その内容というものがです、ね、今朝からのご理解のように、ね、今日は、どうぞ信心しておかげをけてくれよという、とそこだけに絞って、皆さん話聞いてもらった、ね、どうぞ信心して、おかげを受けてくれよということは、どぞ信心しておかげの受けものを作ってくれよと、信心が育つということは、こりゃ、椛目の妹が頂いておる御教えですけれども、ね、信心が育つということは、心が豊かに大きくなり、豊かになることだと、頂いておる。
信心が分かったというても、心が芥子粒んごと小まかったんでは、信心が一つも育っていないということなんです。
ね、心がいよいよ豊かに大きゆう成らして頂くということ、その中にはです、今申しますように、合楽理念を基にした信心生活がでけなければいけない。
ね、こうしちゃならん、ああしちゃならん、という拘束というものは、ないのです。
ね、と同時にその内容はどうあらなければならないかと、ね、努めるところは、きっと努めるというその内容は、どういうことなのか、ということになるわけですね。
どういうことだと思います。
ね、泉尾の先生が仰られるように、ひとつ辛抱比べです、ね、辛抱力をつくらにゃいけません、ね、辛抱せつをつくらければいけません。
もう、今日は眠たいけん、ご無礼しょうといったようなことではでけん。
そこんところに、辛抱力を作らせてもらう、同時にです、ね、尽くす比べである。
ね、なら、どこにどう尽くすかと、いよいよ合楽建設もこの二十三日に起工式という運びになりました。
もう万事万端の上にご都合送り合わせ頂いてのことでございます。
ね、そいで一人でも沢山多くの人達に、集まって頂いて、ね、今日は、その時に市長さんやら、県会議員の方たちやら、また今度ここにお願いをされた沢山な県会議員とか、いろんな、こんだ、みんな、当選のおかげを頂いて来とるけん、あの人たちもこう、呼ぶというようなこと、そげなつ呼んでなんになるの、ち私がいうた、それよりか、ね、ほんとに真が尽くせれる、今度の合楽建設にほんとに尽くせれる人達、いうなら、ここの信奉者が全部集まって、今度の起工式を仕えさせて頂こうじゃないかと、というて、今日、竹中から見えて、その式の打ち合わせにみえられました。
ときに、大体のこと話しが決まって、ここにお伺い来たから、今のような話をしたことですけれども、ね、それこそ合楽の願いが成就するのではなくて、ね、天地金乃神様の願いが、いよいよ地上に成ろうとしておるのです。
神様の願いがいうなら、成就しようとしておるのです。
その神様の願いに、私どもが答えさせて頂いて、ね、神様のいうならば、手にも足にもならせて頂こうというそこへね、いわゆる尽くし比べを、お互いして頂きたい。
ね、そういう意味においてのライバルは持つべきだと思うです。
ね、そして、それこそ、尽くし比べをする、ね。
今日皆さんに聞いて頂いたお話しはね、合楽理念、合楽理念の素晴らしいこと、合楽の信心の素晴らしいということは、なら、これは教団内においてでもです、そういうような、真っ向から嫌われる向きがあるんだけれども、一たびそれが、なら合楽の信心が分かってくると、もう合楽から抜け出されんほどしに、有り難いおかげが伴うわけです。
そして、これこそが金光教だということになってくる。
いよいよ合楽理念をもって、いうなら、○○はするほかはない、なら、海外布教は合楽理念をもってするほかない、というような、強烈な働きの起ってくる、合楽理念をです、ね、皆さんがもっともっと、いうならば、大蒜党に成らせて頂いて、ね、周囲に合楽の臭いをぷんぷんさせる、いうならば、おかげを頂いて、大きく示していくためにも、おかげを頂かなければならない。
合楽の信心の素晴らしいとおもうのは、ね、あれを食べてはならない、これを飲んではいけないというのではなくて、それを、それこそ人間らしゅう生きるということをです、もう合楽ぐらい素晴らしく説く所はないです。
ね、それこそ、酒は飲んでものまいでも、努めるところは、だから、きっと努めるという所をです、いうならば、尽くす心、または辛抱力を作って、いよいよその信心の内容としていかなければならないということでございます。どうぞ。
明日から私は、あの古川の、霊祭に夫婦でおかげを頂きます。で、もう朝、ここを五時に発たないと、あちらが十時半のお祭りですから、あの、間に合いませんそうですから、明日の御祈念は、若先生が致します。えー、あ、光昭が致します。
ご祈念は若先生がして、いや、御祈念を光昭がするか、そして若先生が、あのここへ座らせて頂くそうですから、どうぞよろしゅうお願い致します。